『この坂の上に』
「行ってきまーす」
「いってらっしゃい。気をつけて。今日も遅いの?」
「わかんない」
「そう」
「あ、遅れちゃう!じゃあね!」
慌ただしい足音と共に、娘は家を飛び出していった。
なんだか微笑ましい。
これが一年前なら、きっと彩佳はまだ暗い顔をしていた。
急病人がでていても、自分は看病しかできないと。
でも。
玄関を出ると、今日も抜けるような高い青空。
この坂を上っていくと、白い旗がはためく島唯一の診療所が立っている。
そこを目指して、娘は駆けていく。
正確には、そこにいる、唯一の医者のところへ。
* *
離島医師を捜すという職に就いている夫が探し出した今度の先生は、とても若い。
娘の第一印象は、なんかぼーっとして頼りない、だった。
あの晩、私はご挨拶を兼ねて、夜食を詰めたお弁当を渡したときに初めてお会いした。
確かに若くて、のんびりした容姿は、今まで夫が連れてきたお医者様とは随分印象が違った。
頼りないといえば頼りない。けれど。
「え?お夜食ですか?わざわざありがとうございます」
嬉しそうに、そして丁寧に頭を下げた青年を私は好ましく思ったのだった。
医者としての善し悪しはわからないけれど、きっととても優しい人だろうと。
そして。
あの日、剛洋君が盲腸で大変だったとき。
先生に呼び出された彩佳は家を飛び出し、その日は帰ってこなかった。
私も夫もそれはそれは心配した。
次の日の昼前に帰ってきた彩佳は、
とても清々しい笑顔だった。
久しく見なかった、本当に誇らしい笑顔。
ー剛洋君はどうだったの?
ーうん。大丈夫。本土の病院で10日ほど入院したらもう大丈夫だって。
ーえ?まだ手術してないんでしょ?
ー手術したの。
ーえ?
ーあの先生がね、船の上で剛洋君の手術したの。無茶にもほどがあるって。
ーそれで、治ったのね?
ーそう。あの先生が治しちゃった。ちょっと・・・見直したかも。
はにかむように笑った娘は、とても嬉しそうだった。
だから、分かったのだ。
今度の先生は、本物だと。
内さんが倒れたときも、
ゆかりさんが産気づいたときも。
必ず、あの先生は助けてくださった。
島の医者に対して絶望してきたみんなが、
彼に全幅の信頼を置くまで、そう時間はかからなかった。
* *
Drコトーこと、五島健助先生。
この島が誇る、唯一の医者にして名医。
先生が島に来て、一年が経った。
診療所は毎日患者さんと、単に先生を慕っている島民で賑わっている。
このまま穏やかに日々が過ぎればいいと、私は思った。
fin.
『日常』
「先生ー、いるんですかー?」
一応声をかけて、私は診察時間の過ぎた診療所の扉を開けた。
因みに、鍵は、ない。
先生が島に来てすぐ、海に投げてしまったからだ。
全く、不用心にもほどがある。
誰もいない待合室を横目でみながら、私は明かりの漏れる診察室に入った。
「先生?」
診察室の机に、確かに先生はいた。けど。
「・・・ZZZZZ」
「・・・また寝てるし」
がっくりと肩を落とす。
椅子に座り、頭を机に乗せて、脳天気に先生は寝ていた。
何回診察室で寝るなといっても、この先生は高い確率でここで寝ている。
風邪を引いたらどうするのだ。
「ちょっと先生、起きて下さいー!」
「んー・・・?」
肩を揺さぶると、ひょこっと頭が上がる。
寝ぼけ眼で私をみた。
「あれえ、彩佳さん・・・?・・・んー。・・・」
くたっと机に突っ伏してしまった。
「ってまた寝ないで下さい、先生!」
もう一度揺さぶってみるけれど、反応はなかった。
「全く・・・。・・・え?」
机に散らばっている沢山の資料。
よくみれば、新しく島にやってきた住民の持病に対するものだった。
「・・・全く・・・まだ診療所に来てもいないのに」
ぼーっとしていて頼りないようにしか見えない先生のくせに、
いつでも・・・一生懸命なのだ。
私は一つため息をついて、勝手知ったる診療所の奥から掛け布団を持ってきた。
「・・・何で、私が先生の世話してるのよ」
愚痴ってみたけど、何故か、嫌な気はしなかった。
この先生がいつも、島のみんなのために頑張っていることは私が一番知っている。
先生の白衣の上に、布団を掛けた。
「・・・彩佳さーん・・・」
「な、何ですか」
ぎょっとして先生をみたら、まだ寝てた。
なんだ、寝言か。
「・・・ヤシガニラーメン、置いといて・・・」
またしても力が抜けた。
先生の大好きな・・・カップラーメンの話。
わざわざ私に言うことが、それ?
怒ってみたけど・・・最後は笑ってしまった。
まあ、いいか。
「ヤシガニラーメンじゃないけど、夜食、置いときますから。それから、
・・・風邪引かないで下さいね、先生」
fin.