欠けた部屋

『彩佳さーん!』

のんびりした声に、私は振り返った。
なんだ。
先生は、ここにいたんだ。
やっぱり、先生はここにいたんだ。

「せんせ、」

気が抜けそうなほどの笑顔に声をかけようとして、凍り付いた。

『・・・さようなら』

さっきまで、座っていたはずの姿が急に掻き消えた。

「先生?」

私は部屋を見渡した。
診察室の机も、ベッドも、採血台も。
私は診療所の中を駆けた。
病室も、手術室も、待合い室も何も変わらないのに。

何処を探しても、あの笑顔は見つからなかった。

・・・嫌だ。
どうして。

私は叫んだ。

   *   *

はっと飛び起きたら、自分の部屋だった。

「・・・あ、れ・・・?」

夢、だったんだ。
先生がいなくなる、夢。

そういえば、前もこんなことがあった。

私はいつの間にか受付で寝ていたみたいで。
気がついたら診療所の待合室のみんなが
吃驚した顔でこっちを見ていて。
私、今、変なこと言わなかった?って聞いたら、茂さんが教えてくれた。

いや、なーんも言ってないよ。
コトー先生行かないでー、なんてな!

私は即座に否定した。
先生なんかいなくても全然大丈夫だと。

あのときは、診療所に笑顔が溢れていて、
そして、先生が、いてくれた。

でも。
もう、夢じゃないんだ。

もう、先生はいない。

「・・・コトー先生、行かないで・・・」

   *   *

主のいない診療所の受付で、私はぼんやりしていた。
向かいの待合室に、患者は誰もいない。
来ても仕方ないのだ。

もう、医者はいないから。

そんなの、半年前までと一緒の筈だった。
医者に見捨てられた島で、私は看護士として出来うる限りの処置をしてきた。
分からないものは、重大そうな症状は、本土に行くように勧めて。

同じな筈、なの、に。

どうしてこんなに不安なんだろう。
傍らにあって、当たり前だと思っていたものが足りない。
どんな急病人がいても大丈夫だと、患者さんを励ますことが出来た、心に満ちていた安心感がない。

全然、大丈夫じゃなかった。

「課長、具合はどうじゃ」
「・・・え・・・?」

いつの間にか、和田さんが診療所に戻ってきていた。

「課長。腹が痛いって寝込んでるんでしょう?」
「・・・うん」

コトー先生が去って、父は体調を崩していた。
きっと神経性の胃炎だろうと判断して、胃薬を飲んで家で静養している。
本当は、医者に診てもらうのが一番なんだけれど。

もう、いないから。

   *   *

私はまた、診療所にいた。
他に、何にも思いつかなくて、ただ受付にいた。

突然、ドアが開いた。
頭を向けると、寝込んでいたはずの父が、しげさんと和田さんに支えられていた。
胸元には、血痕。

「・・・お父さん」

どうして。一体何が。
時間が凍り付いた。

「おい彩佳!!!」
「彩佳さん、どうしよう!!!」
「おい、彩佳、どうするんだよ!!!」

みんなの声が遠い。
血。
父が。

診察室に運び込まれた父を見て、漸く体が動いた。
混乱しながら、看護士としての対応をやっと思い出した。
吐血の色と量を聞く。
隣のしげさんが叫ぶ。

「彩佳、何とかしろ!!!」
「わかってるわよ!!!」

反射的に怒鳴り返してしまう。
もう、この島には看護士の自分しかいないのだから。
点滴して、バイタルを取って、それから、次は!?

「彩佳さん、氷!!」

和田さんが用意してくれた氷の入ったボールを私は取り落とした。
冷たい床にぶちまけられた氷。
殊の外響いた硬質な音。

こんなこと、久しぶりだった。
コトー先生が去ってしまったから。
全てが悪い方向に進んでいきそうで。

・・・怖い。

私たちは黙り込んでしまった。

「・・・聞こうか。コトー先生に」

静まり返った診察室に、和田さんの呟きがやけに響いた。
誰もが願っていること。
誰もが、コトー先生の存在を望んでいる。

「・・・聞けるわけないじゃない。」

本当は聞きたい。
今すぐ助けてって、コトー先生を連れ戻したい。
でも。

「・・・どうして今更、そんなことが出来るの?」

あれだけ島の我儘で傷つけて、
追い出してしまったあの優しい先生を、どうして今更頼ることが出来るのだろう。

   *   *

本土の病院に電話して、みんなに協力してもらって
父の容態は安定したようだった。
病室に横たわる窶れた父。
傍らに付きそう母にも疲労が濃かった。

深夜。

今は落ち着いているけれど。
何かあったら。
どうしたらいいのだろう。
もし、また、吐血したら。
本土に運ぶにしても、間に合うのだろうか。

自分が内部から崩れていくようだった。
看護士として支えてきた何かが、砂のようにこぼれ落ちていく。

本当にこれでいいの?

・・・助けて。
助けて、コトー先生!!!

心の叫びを無視することは、もう限界だった。

   *   *  

和田さんが残してくれた番号を、震える手で押した。
コール音を聞きながら、私は・・・受話器を置きたくなった。

もし。
もし、先生がこの電話を取ってくれなかったら?

そんなことはない、ともう一人の私が即座に否定する。
コトー先生は優しいから。
でも、あんなに酷いことを言われて、信ちゃんの命も、あの記者の命さえ救ったのに追い出されて。

私だったら、こんな電話、もう取りたくないだろう。

先生。
お願い、出て!!!

「・・・昭英大学病院でございます」
「あ・・・」

機械的な女性の声に、私は我に返った。
そうだった。
今かけているのは大学病院の電話番号であって、先生への直通ではないのだ。

「もしもし?」

少し苛立ったような声に、慌てて返事を返した。

「・・・すいません。
私、志木那島診療所の星野と申します。
コトー、いえ、五島先生はいらっしゃいますか?」
「・・・五島先生ですね。少々お待ち下さい」

プッ信号音がして、保留中のメロディーが流れ出す。
さっきはあんなに怖がっていたのに、私は気が抜けたようにそのメロディーを聴いていた。
権威ある昭英大学病院の外科医、五島健助先生。
もう、コトー先生じゃないんだ。
志木那島の診療所でみんなと笑ってた、コトー先生じゃないんだ。
離れてしまった存在が、悲しかった。

「・・・もしもし?」
「・・・!!」

男性にしては少し高めの、柔らかい声。
先生だ。
コトー先生の、声。
まだ数日しか経ってないのに、もう長年聞いてなかったかのように私の心に響いた。

「・・・もしもし?」
「・・・コトー先生」

私の声は、ちゃんと出たのだろうか。
震えたり、してないだろうか。

「・・・彩佳さん」

声は、届いていた。
すうと息を吸い込む。

「・・・すみません、こんな時間に。今、話しても大丈夫ですか?」
「どうしたの?」

変わらない、泣きたいくらいに優しい声が嬉しくて
何も言えなかった。

「・・・何かあったの?」

私は父が吐血したこと、そして
本土の病院に連絡してできる限りの処置はしていると
伝えた。

「全部、ひとりでやったの?」
「・・・みんなに、手伝ってもらって」
「そう。・・・よくやってくれたね」

きゅっと受話器を握りしめた。
優しい言葉が、がちがちに緊張していた心を解していく。
私はやっと、聞きたかったこれからの処置を尋ねることが出来た。
本土できちんと検査を受けたほうがいいと、先生は教えてくれた。
そして、先生は言葉を切った。

「・・・僕のせいだね」

え?と声を上げそうになった。

「僕が、迷惑をかけてしまったから・・・」

私は、はっとした。
そうだ。
コトー先生は、全部自分のせいだと考えてしまう人だった。
違うのに。
先生は、何も悪くないのに。

「先生のせいじゃありません。そんなつもりでかけたわけじゃ・・・」
「・・・」

急いで否定したけれど、先生は黙ったままだった。
思いつめてるんじゃないだろうか。
いつも何処かで、深い思いを抱いている人だから。

何も言えなくなった。

姿は見えないけれど。
今、受話器の向こうに、先生がいてくれる。
静寂が、コトー先生と私を繋いでいる気がした。

「・・・コトー先生」
「・・・ん?」

何か、伝えたかったけれど。

「・・・いえ、お忙しいときに、すいませんでした」
「彩佳さん」
「はい」
「お父さんの側に、ついていてあげてくださいね。
何かあったらすぐに電話して下さい。
今、僕に出来ることは、それくらいしかないけど・・・」
「分かりました。ありがとうございます」

出来る限り平静な声を出して、私は受話器を切った。

声を聞いたら。
これからの処置を聞いたら、少しは落ち着くと思ったのに。

声を聞いたら、ずっと聞いていたくて。
姿が見えないから、危うくすぐ帰ってきて、って言ってしまうところだった。
いつの間にか、ここにいてくれることが当たり前になっていて。
先生が、どれだけ大きな存在だったのか、やっと分かった。

私は。

私は、やっぱり、コトー先生がいないと、大丈夫じゃないんだ。

   *   *

病室にひっそりとやってきた重さんが、父を説得してくれた。
明日。
父は、本土へ入院する。

港で、重さんの漁船を前に、沢山の人が集まっていた。
病気を治して、無事に島に帰ってくることを信じて。
私は母と共に、暫く本土へ行くことになった。
不安がないわけじゃないけれど。

もう、それ以外選択肢がなかった。

突然、邦夫が叫んだ。

「あれ!!剛洋の、父ちゃんの船だ!!!」

指差す方を、みんなが一斉に辿った。
確かに、それは原さんの船だった。
だけど、何故か沖のほうから島へと戻ってきている。

・・・こんな朝から、何処かへ行っていたのだろうか。

みんなが見守る前、剛宝丸が近づいてくる。
原さんが顔を出して、剛洋が乗っていて、そして。

もう一人、乗っている。

顔は見えないけれど、
私は、何故か、すぐに分かってしまった。

「・・・コトー先生」

無意識のうちに、私は船を追っていた。
その姿が、幻でないことを、この目で確認するために。
シャツにネクタイを締めて、いつもよりもきちんとした格好をしていたけれど。

みんなを癒すような優しい笑顔は、変わらなくて。

先生は島に上がると、すぐに父の前にやってきてくれた。

「星野さん。・・・すぐに診察します。診療所へ行きましょう」

それは、みんなが待ち望んでいた人の、ずっと聞きたかった言葉だった。

   *   *

父の病名を聞くために、私たち家族と、和田さんが診察室に集まっていた。
みんなの中心で、定位置に座った先生がレントゲンを見ている。

「・・・先生。はっきり言って下さって構いませんから。
先生に手術してもらえるなら、どうなっても、悔いはありませんから」

父が私たちを見た。
私も、母も同じ気持ちだった。

「・・・先生。お父さんの病気は・・・」

気丈にも、母が直接尋ねてくれた。
先生は答えた。

「貧血とポリープは気になりますが・・・
とりあえず薬で様子を見てみましょう」

父は、覚悟を決めた。

「先生。それでその、手術の方は・・・」
「手術は必要ありませんよ」

誰もがぽかんを先生を見た。
先生は、病名を教えてくれた。

「典型的な胃潰瘍ですから、薬で十分治ります」
「・・・は?」

そのときの私たちは、さぞかし呆けた顔をしていたに違いない。

   *   *

父の病気が胃潰瘍と判明して、私たちは本当に安心した。
薬で十分治る。それに。
島には、コトー先生がいてくれるから。

私は、荷物を置いてくる先生を迎えに、診療所の扉を開けた。

「先生」

診療所の奥で着替えてきた先生が、白衣姿で佇んでいた。
待合室の窓からの青い海をただ真っ直ぐに見つめていた眼差しが、こちらに向けられた。

ただ、綺麗で。
何を、思っているのだろう。

とっさに掛ける言葉が見つからなかった。
自分でも分からないけれど、胸の奥からいっぱいに溢れてくる想いが大きすぎて。

やっと、診療所の主が戻ってきたんだ。
じゃあ、掛けるべき言葉は。

「・・・お帰りなさい」

ずっとずっと、待っていた。

fin.