ふと目が覚めた。

山積みの書類、電源のつけっぱなしのPC。どうやら局長室で寝落ちしていたらしい。そして一通の封筒に目がとまる。一番上には、『退職願』の文字。

「・・・」

見覚えのありすぎる文字は、女性ながらにして闊達な彼女のもの。

そうだった、彼女はもうWROにはいないのだと。
彼女の傍らには相応しい男性が彼女を支えていて、結婚式は来月との話だった。それを心から祝って、見送って・・・。

ふと思い出す。

眠っていた間に見た、もしもの世界。
私が彼女と結婚して、彼女と彼女の妹やケット達と一つ屋根の下に住んで、同じテーブルを囲んで。信じられないくらい幸せな日常。

そうか、私は・・・。

彼女の結婚と辞職から、「もしも」の願いを夢に見てしまったということか。
何という浅ましい。
退職願をもう一度目に映す。こちらが現実。私が願ってはいけない。

・・・あの家族は、幻。

無意識に手を握りしめて自分に言い聞かせて、そうだ、と思い出した。
彼女が相応しい人と結ばれたら、叶えようと思っていた別の願い。今所有している最高級のワインは、奥のプライベートスペースに置いてある。立ち上がって、向かおうとして、よろけた。

「っつ!」

がつっと脛を思い切りデスクにぶつけてしまった。涙目で押さえて、何かもう駄目駄目ですよねと苦笑して、奥へ進む。戸棚の下に作ったワイン保存倉庫。といっても10本も入らないけれど。その一番下に大切に置いていた、20年もののワイン。

取り出して、倉庫の扉を閉めるときに。

力が入らなかったのか、あっと思ったけれどワインを持つ手が滑って。

ガシャン、とあっさりとワインが割れてしまった。

床に広がっていく朱い染み。

呆然とみているしかなかったそれは、何だろう。

誤魔化してきた何かが、封じていた何かが零れてしまったような。
取り返しが付かないことが起こったと今更理解してしまったような。

覚悟、していた筈だったのに。
どれだけ望んでも手に入らない、手に入れては彼女を不幸にすると分かっていたからこそ、
彼女が幸せならそれでいいと、自分を偽ってでも、結婚を祝った。のに。

「・・・は・・・。はは・・・」

乾いた笑い。

目を閉じる。
頬を伝った滴が何なのか、気付かなかったことにして。

私はただ、案山子のように突っ立って笑っていた。

*    *

「っ起きろ!!!」
「うわああ!!!」

突然の耳元での大声に、がばっと顔を上げた。
山積みの書類、つけっぱなしのPC。いつも通りの局長室なのだが。
目の前にWROを去ったはずの彼女がいることにもう一度驚く。

「なっ!?な、何故、シャルアさんがここに!?」
「何故も何も、あんたが帰って来ないから迎えに来たんだろうが」
「え!?迎え!?シャルアさんが!?」
「おいおい、落ち着け、どうしたんだ?」
「ちょっ!?」

冷静に覗き込んでくる彼女の距離が近すぎて、私は躯ごと彼女から引いた。
心臓の動悸が激しすぎる。思わず胸に手を当てて息を整えていたら、すっと真剣な目に変わった彼女がデスクからこちらに回って近づいてきた。

「いっ!?ち、近いですよ!?」
「お前・・・。ちょっと診せてみろ」
「は、はい!?」

問答無用で彼女の細い指が私の首筋、胸のあたりそして額に触れて。逃げようにも肩を押さえられていて動けなかった。

「あ、あの・・・一体・・・?」
「動悸に息切れか・・・。発熱も認められる。病はなさそうだが、過労だな。帰るぞ」
「・・・帰る、とは?」
「何を呆けている。家に帰るぞ」

思いがけない単語に、思考が止まった。

「・・・家?」

一応寮に自室はあるけれど、殆ど使っていない。物置のような部屋を果たして家と呼ぶのだろうか。寝泊まりする場所、という定義であればこの局長室奥のプラべートスペースのことだが、隣の部屋に引っ込むことを果たして帰るというのか。

そういえば、奥のプライベートスペースは割れて零れたワインがそのままだった気がする。片付けた記憶もない、その気力もないはずだからワイン浸しのえらいことになっているだろう。あれ?だとすると、私はいつデスクに戻ってきた?
記憶の混濁に今更ながらため息をつきつつ、あとで片付けなければ。それはさておき。

「家とは・・・何処のことですか?」
「お前、寝ぼけているな?あんたの寮に決まっているだろうに。シェルクたちもあんたを待っている」
「寮に、シェルクさんが・・・?」

ぽかんと彼女を見上げる。シェルクはシャルアの妹。その彼女が何故私の寮にいるのだろう。あの夢じゃあるまいし。
反応の薄い私に、彼女は深いため息をついた。そして何か思いついたように勝ち気な笑みを浮かべた。それはとても彼女らしい笑みで、もう既に誰かに奪われたはずの笑顔で。ぼうっと見とれていたら。

不意に彼女の顔が近づいて。
気がついたら唇に柔らかい感触。

「っつ!?な、何を!?」

「あんたが寝ぼけて隙だらけなのが悪い。ほれ帰るぞ」
「あ、貴女も・・・帰る、んですよね?」
「ん?当たり前だろう」
「あの・・・」

何処へ帰るのか、と尋ねようとして聞けなかった。今更知らない誰かのところに帰る彼女に聞いてどうするのかと。
だが、彼女は綺麗な笑みで答えた。

「あたし達の家に帰るんだ。あたしが惚れた、あんたの家に」

Fin.